Jambouya

仕事復帰3週間、ぶどう狩り、シルバーウィーク

9月1日、9ヶ月弱の休職期間を経て新たな環境で仕事復帰した。朝決まった時間に起きてパパっと朝食を済ませて仕事着に着替えて家を出る。 混雑する通勤電車に乗り込む。今まで15年近く当たり前のように続けてきたことが、全て新鮮に感じた。 復職直前は「また働けるだろうか」という不安感もあったが、気づけばあっという間に3週間が過ぎていた。 この3週間で感じたのは「働くとお腹が空く」ということだった。あぁ、そうだった。 仕事でこれだけのエネルギーを使っていたのだ、と身体の感覚で思い出した。 週末にはリフレッシュしようと、近所の果樹園さんへぶどう狩りに出かけた。 昨年の今頃、このイベントを見つけたときは「家から徒歩圏、東京都内でぶどう狩りができる場所があるなんて…!」と驚いた。 今年は、シャインマスカット、マスカサーティーン、クイーンニーナ、紅環と4品種を一房ずつ収穫させていただいた。 冷蔵庫の1段がぶどうで埋まるくらいのボリュームだ。しばらく果物は買わなくてもいいな。 冷やして一粒ずつ食べてみたが、品種ごとに味わいが全く違って楽しい。 シャインマスカットは多く流通しており味の想像がつきやすい。 紅環、クイーンニーナは濃いめの味わい。シャインマスカットっぽいベースであるが、ギュッと味が濃縮されている感覚がある。 マスカサーティーンは、見た目はシャインマスカットと瓜二つだが、食べてみると控えめな甘さ、より上品で洗練された味わいがする。 食後に、その日の気分で品種を選んでデザートにする楽しみができた。 他にも、台風一過の晴れ間に井の頭公園を散歩したり、この時期だけ出回る洋梨を使ってジャムをつくったりと、 シルバーウィークはリフレッシュに時間を使った。 新しい仕事に就くと覚えることが多く、休日もそのことに気を取られがちだが、こうやって自分の好きなことをする時間を取って、 仕事一辺倒ではなく、プライベートとのバランスを取って歩んでいきたい。

ボウマルの26cm銅鍋

3万円の鍋を買った。ボウマル 銅のジャム鍋26cm、フランス製。おそらく、我が家の調理器具の中では最高額だろう。これを買うまで、色々なブランド鍋を見ては「2~3千円で買える普通の鍋と何が違うのだろう?」と疑問に思っていた。実際、自分もこれまでは3千円(くらいだったと思う)の手持ちの鍋でジャムを煮ており、それで事足りていた(頻繁にジャムを煮るようになったのは、ここ2年での自分自身の大きな変化のひとつだ)。 なのに、だ。ある日、自分がジャムの作り方を学んだYouTubeのロミユニチャンネル(ロミユニ romi-unieさんは、鎌倉にあるジャムと焼き菓子のお店。自分も鎌倉に住んでいた時に何度か買って、ちょっとした贈り物に使っていたりした。)に映っていたこの銅鍋を見て、一目惚れしてしまった。かっこいい。経年変化でいい味が出ている、使い込まれた姿がたまらない。あれがキッチンに並んでいたら、それだけで毎日の料理も気分が上がるに違いない(もはやジャムは関係なくなっている)。銅製は熱伝導率が高くて温度ムラが生じにくいので美味しく煮上がる、一生使えると考えれば高い買い物ではない、など、買うための尤もらしい理由を考えはじめたら最後。意を決して注文した。 届いた鍋の新品の輝きに、また気分が上がる。これから使い込んで変化していくであろう姿を想像する。「銅です!」と訴えかけるズシリとした重量感。持ち手の形状も雰囲気があって好きだ。今すぐこの鍋でジャムを煮たい。近所の農家さんから買ってきたブルーベリーを煮ることにする(東京都がブルーベリーの収穫量で日本一だということを、今の家に引っ越してきて知った)。ブルーベリーとその80%のグラニュー糖、大さじ1程度のレモン果汁を加えて強火にかける。ロミユニ先生の教えの通り、最初から最後まで強火だ。銅製の威力だろうか、今までの鍋より火の通りが早い気がする。煮込むことで出てくる艶。銅鍋の中では、より一層美しく見える気がする。そろそろ煮上がりだ。熱いうちに瓶詰めして密閉する。勢いあまって瓶6つ分も煮てしまった。粗熱が取れて、食べ頃になるのを待つ。果たしてどんな味わいだろうか。どうかおいしく仕上がっていますように。

資本主義と生きていく(著: 品川皓亮)

「お金のプレッシャー」は、ずっと背後に付きまとう。仕事から離れた時期は特に。 この人生で付き合っていかざるを得ない資本主義。その苦しさの正体と、適度な距離の取り方を考えるきっかけになった1冊。 資本主義についていえば、それを絶対視して称賛するのでもなく、全否定して脱成長や共産主義を主張することもしません。 それらの両端の間のどこかにある最適解を、みなさんと一緒に探っていきたいと考えています。 (p.22-23) 序章に書かれているように「個人視点の原則(それは私にとってどんな意味を持つのか、という視点で考える)」「バランスの原則(両極端に走らない)」 「希望の原則(脱力系の教えに安心しない)」に基づき、資本主義との折り合いの付け方を考えていくスタンスに信頼が持てた。 本書を通読し、その内容を「個人視点の原則」に則って、自分に引き寄せて考えてみると、 特に「成長」という追手、その背後にある「イノベーション」という資本主義の構成要素がもたらす圧力に苦しんでいたと思う。 製造業での将来向け研究開発を仕事としていた自分は、仕事で常にこのプレッシャーを感じていた。 「何が新しいのか、イノベーティブなのか」ということを常に厳しく問われ、 無限にイノベーションが生まれ続けるなんてことはあるんだろうか いつまでこんなことを続ければよいのか これは果たして社会を良くしていく営みなのだろうか といった疑念に苛まれていた。 本書ではヨーゼフ・シュンペーターの理論を参照し、 創造的破壊のプロセスによって資本主義は発展するが、その発展によってむしろ資本主義は滅びて社会主義に移行する運命にあると予言。 イノベーションや創造的破壊という発想は、現代人が苦しむ「成長の呪い」を強め、<成長>という追手をより強大な存在にしていると考えられる。 (p. 222-223) と説く。この考えが全てではないだろうが、自分自身の置かれている状況を、 資本主義社会の構造が内包する問題として客観的に捉えることで、自身が感じていた苦しみとうまく距離を取る契機ができたと思う。

「能力」の生きづらさをほぐす(著: 勅使川原真衣)

働く中で感じていた苦しさの正体を紐解きたくて手にとった1冊。 メリトクラシー(能力主義)の呪縛が、ジリジリと自分を縛り付けていたことに気づく。 そもそも「能力」とは何なのか?「社会が求める能力」なるものが何なのか、具体的になにをすればよいのか、 ずっと掴めずに苦しんでいたように思う。そんなとき、本書のこの言葉にはっとした。 「能力」は環境次第でいくらでも移ろうもの。個々の身体のなかに確固として存在する臓器のようなはっきりとしたものではない。 誰となにをどのようにやるか、これ次第! (中略) さまざまな感情や、考え、言動が入り混じる職場において、なにが、どのような指示系統のなかで進められていくか。 そうした環境と自身がかみ合った状態が、「活躍」や「優秀」と表現されるに過ぎない。 (p.36-37より) そうか、そもそも「能力」なるものに確固とした定義をすること自体に無理がある。 その得体のしえない、移ろいやすい蜃気楼みたいなものを追いかけて苦しくなっていたのか。 そうやって、自分の状況を客観的に捉えることができただけでも、読んでよかったと思った。

自分にやさしくする生き方(著: 伊藤絵美)

学生時代だったか「おとなになるというと、子どもの自分がそっくりおとなに置き換わっていくと想像するかもしれません。しかし、実際は、子どもの自分の外側に、おとなの自分が鎧のようにできあがっていく、という捉え方のほうが正しいです。」というような主旨の話を伺ったことを覚えている。その時は、何を言っているのかピンとこなかったけれど、伊藤先生の著書を読み、自分をケアする方法を学んだ今、その言葉の意味がよく分かる。 自分の「内なるチャイルド」の声に耳を澄ませること。内なる子どもを大事にしてあげること。それこそが、これからの生き方に必要だ。 振り返って、自分の「内なるチャイルド」はどんな声をあげていただろうか。伊藤先生ご自身の「内なるチャイルド」の声が、自分にも響いた。 「内なるチャイルド」の「遊びたい」「活動したい」には応えていたが、 「疲れたよ」「のんびりしたい」「休みたい」には応えていなかった。 もともと多動傾向があるので、それらの声を拾いづらいというのがあった。 (本書 p.24より) 今までは、興味のあること、やりたいこと(やるべきこと)が多くなりがちで、カレンダーに予定をぎゅうぎゅうに詰めてはパンクする傾向にあった。 この傾向に気づき、自分の「内なるチャイルド」が発する「のんびりしたい」の声に耳を澄ませ、きちんと休息を計画し、「静」の休み方を実践していきたいと思う。 そしてまた、本書では「セルフ・コンパッション」を使って「大人の私」に対するケアを担うことを説いている。 「セルフ」は「自分」、「コンパッション」は「思いやり」なので、セルフ・コンパッションを日本語で平たく言えば、 「自分への思いやり」ということになります。 (本書 p.26より) 「内なるチャイルド」をケアする「大人の私」がケアされていなかった。「大人の私」も加齢によりかなりくたびれてきているのに、それへのケアが足りなかった。 (本書 p.24より) なるほど、そうか。「内なるチャイルド」の存在に気づき、そのケアをしてあげると同時に、「大人の私」の状態にも目を向け、ケアしてあげること。 この2つが揃うことで「自分をケアする」ことが可能になるのだ、という構造が理解できたことは、自分にとってとても大きな一歩だった。